「カナダに留学する!」そうは決めたものの、周囲から反対され、留学するかどうか迷っている方もなかにはいらっしゃるのではないでしょうか。
「他人の意見なんて関係ない!自分は留学するんだ!」という強い意志を持った方とは違い、他人の目を気にしてしまう性格の私は、こちらに来るまで自分が選んだ道が正解なのか不安で不安でたまりませんでした。
今回の記事は、かつての自分のように不安を抱えている方に向けて書いてみました。
周囲に反対される日々
周りの友人たちが就職活動に勤しむなか、私だけ「カナダで保育士になりたい」という理由で就職活動をあまり積極的におこなっていませんでした。
「就活しないなんて甘えじゃない?」「大学卒業してなんで保育士?新卒切符捨てるの?」と否定的な意見をぶつけられたり、大手に就職先が決まっていく友人たちを見たり、だんだん自分の選択肢が間違っているように思えてきました。
「やっぱり就活した方がいいのかな……」と、そこから少しずつ就活を始めてみるものの、もちろんうまくいきません。就活があまりうまくいかないことをかつてのサークルの先輩に相談したところ「お前のカナダで保育士になるって思いはそんなものだったの?」と言われ、悔しくてたまりませんでした。
先輩としては、自分の夢を叶えるためにカナダに行けばいいという意味合いだったと思うのですが、当時の自分にとって「カナダで保育士になる」という選択肢は、「新卒切符」というこれまで積み上げてきた機会・学歴を捨てること、今後の人生すべてを賭けてカナダに行くことを意味していました。「新卒切符を使って大手に就職した人に、その切符を捨てる怖さなんてわかるわけない」、それが悔しさの根源だったと思います。
自分の人生に責任を取れるのは自分だけ
そして、先輩の発言からもう一つ気づいたことがあります。それは私が「カナダで保育士になる」ことに反対する人もいれば、私が「日本で就活する」ことに反対する人もいるということです。
結局、どちらの道を選ぼうが、賛成する人も反対する人もいます。そして、賛成した人も反対した人も、その選択肢に責任を取ってくれるわけではないのです。たとえば、日本で就職して数年後に「あのときカナダに行けばよかった」と思ったところで、就活を勧めてきた友人や両親を責めることができるでしょうか。
もし周囲に反対されて留学するか迷っているなら、数年後の自分の姿を想像してみてください。留学している自分が「この選択肢で間違っていなかった」と思っているのか、日本に留まっている自分が「あのとき留学していたらよかった」と思っているのか。留学したことを間違っていないと思えるのなら、きっとその直感は正しいと思います。
こうして、その先輩との会話以降、自分の人生に責任を取れるのは自分だけ、と思うようになりました。いままでは社会や両親が引いてくれたレールの上を歩いていればよかったけれど、これからは自分の知らない土地で、自分でレールを敷いて進んでいかなきゃいけない。
自分の「留学する」という選択肢に対して責任を取るということ、それは果てしなく未知でとっても怖いことです。でもその怖さと向き合い、一歩ずつ進んでいくことは、とても勇敢で意味のあることだと思います。
そしてカナダで保育士に
2019年に大学卒業後カナダに渡り、2021年に2年間のカレッジプログラムを終えました。現在はECE(Early Childhood Educator)として現地の保育園で働きはじめて、早1年経ちます。
周りの目を気にして、将来が不安で不安でしょうがなかった3〜4年前の自分に「大丈夫!あなたは、ちゃんとカナダで保育士やってるよ」と伝えてあげたいです。他人の意見を参考にすることももちろん大切ですが、そればかりに左右されず、自分のやりたいことをやりきることの大切さをこの数年で学んだ気がします。
きっといま悩んでいる方々も、数年後には自分がやってきたことを肯定的に思える日が来るはずです。それでは最後に、Theodore Rooseveltの有名な言葉(The Man in the Arena)を送ります。自分の志のために闘う私たちはまさに「アリーナの男」。
"It is not the critic who counts; not the man who points out how the strong man stumbles, or where the doer of deeds could have done them better. The credit belongs to the man who is actually in the arena, whose face is marred by dust and sweat and blood; who strives valiantly; who errs, who comes short again and again, because there is no effort without error and shortcoming; but who does actually strive to do the deeds; who knows great enthusiasms, the great devotions; who spends himself in a worthy cause; who at the best knows in the end the triumph of high achievement, and who at the worst, if he fails, at least fails while daring greatly, so that his place shall never be with those cold and timid souls who neither know victory nor defeat."
(訳)批判はどうでもよい。つまり人がどれだけ強く躓いたか、行動力のある辣腕の人にやらせたらどこがもっとうまくできたか、粗探しはどうでもよい。名誉はすべて、実際にアリーナに立つ男にある。その顔は汗と埃、血にまみれている。勇敢に戦い、失敗し、何度も何度もあと一歩で届かないことの繰り返しだ。そんな男の手に名誉はある。なぜなら失敗と弱点のないところに努力はないからだ。ところが常に完璧を目指して現場で戦う人、偉大な熱狂を知る人、偉大な献身を知る人、価値ある志のためなら自分の身を粉にして厭わない人…結局最後に勝利の高みを極めるのは彼らなのだ。最悪、失敗に終わっても少なくとも全力で挑戦しながらの敗北である。彼らの魂が眠る場所は、勝利も敗北も知らない冷たく臆病な魂と決して同じにはならない。
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